かねいについて/1

はじめまして。大分県中津市で「中津菓子 かねい」を営んでいます、店主の平川です。
和菓子から始まったこのお店では、今では定番のおはぎやお饅頭以外にもケーキや焼き菓子など、様々な種類のお菓子をお届けしています。平成16年にオープンしてからというもの、たくさんの方々に支えられここまで続けることができました。ありがとうございます。
ここでは「中津菓子 かねい」ができる前から現在に至るまで、そしてお菓子とお客様への想いをお話したいと思います。

「魚屋」と「和菓子屋」。二人とも実家の跡取りでした

妻は「桃屋甚兵衛」という、地元では有名な和菓子屋の3人姉妹の長女として生まれました。
店の後継ぎとして厳しく育てられたといいます。何ごとにも高い水準を求める父親に反発し、一時は親元を離れて暮らしたこともありましたが、その父親が体調を崩して思うように働けなくなったことをきっかけに、実家へ戻り和菓子職人になる決心をしたそうです。
一方私は、1892年創業の老舗鮮魚店の長男で、幼いころから“跡取り息子”として育てられました。
幼い頃から当たり前に店の手伝いをしてきたので、魚のさばき方も覚えました。

そして互いに跡継ぎ同士という境遇を乗り越えての結婚。新婚生活は私の実家からスタートしました。
世間的にも「長男が実家の稼業を継いで当然だ」という風潮の中、私もいずれ実家の魚屋を担うことになるのかな…
そんな気持ちを抱えながらの毎日でした。

私は物心がついた時から家の看板を背負い、跡取り息子であることへの葛藤がありました。
ですから、何をするにも「いつかは魚屋」という考えが頭のどこかにちらついていました。
興味を持ってはじめたことでも、長続きしないよう無意識のうちに自分自身をコントロールしてしまっていたのかもしれません。
1日約14時間365日休みなく働く両親。母は、忙しくて私たち子どもにかまってやれないことを悔やむ言葉を度々口にしていました。
そんな環境で育った私は、生まれたときから決められた自分の将来がいやになり、結婚後も魚屋の仕事に情熱を注ぐことができず、たびたび仕事を離れ部屋に引きこもってしまうこともありました。

昭和の初め、父が生まれた頃くらいの写真らしいです。
場所は、中津市京町(今の旧市街、お城の近く)
当時、魚ん辻(うおんつじ)と言われていた場所で、生鮮食料品や日用品を扱う
いろいろな商店が並んでいて、特に魚屋が多かったので、魚ん辻。
中津市内で一番栄えていた町だそうです。
運転してるのが私の祖父の弟。つまり大叔父。
傍にいるのは、うちで奉公していた丁稚(でっち)さん。
当時この3輪バイク?は、中津に3台しかなかったらしいです。父の自慢(笑)

義父への弟子入り

そんな私に転機をもたらしたのは義父(妻の父)の存在でした。

最初に出会った時から「すごい人だな!」と衝撃を受けることが多々ありました。
私が特に感銘を受けたのが、書や茶道といった「和」の趣味を多く持つ義父が、その感性を趣味だけに留めず仕事である和菓子屋の世界でも自分の世界観を表現していたところでした。
「仕事は仕事」としか捉えていなかった私とは違い、自分の世界観を仕事にも展開できる義父は、憧れそのものでした。
義父が与えてくれたものは数えきれませんが、それまで私が生きてきた世界とは、まったく別の扉を開いてくれる存在だったことは確かです。どんな仕事をしても自分の気持ちが定まらなかった私は、義父に出会ったことで、自分らしく自分を表現したいという気持ちに気づかされたのでした。日本の伝統的な和菓子の世界も私には新鮮で、とても神聖なものに思えました。

尊敬する義父のような人になりたい。私は弟子入りすることを決意しました。

かねてから私のことを心配していた両親は、私の決断に反対することはありませんでした。
「目標を見つけたのならそれに向かって進めばいい。お客さんが喜ぶ商いをやるのが100年続いた魚屋の信条、魚屋も和菓子屋も商いには変わりないからその志さえ継いでくれれば…」と、静かに賛成してくれました。
そして三代続いた魚屋は父の代で廃業することになりました。
私はやっと自分の進むべき道を見つけた気がしました。義父は、自分の知識全てを伝授しようと時間を惜しまず指導してくれました。そして私も、義父の持つ「技」や和菓子への「姿勢」、その全てを身に付けようと必死についていきました。
材料の見分け方から始まり、菓子をつくる工程はもちろん、同じ配合でも作り手によって味や出来上がりが全く違うこと。ひとつひとつの商品を、日々どこまでも丁寧に追求していく姿勢など。

多忙で深く濃い日々が続きました。
憶えることも山積みでお客様も増えて行った頃、それは修行を始めて3年が過ぎた頃でした。

突然、人生の師でもあった義父が病に倒れ、あっという間に亡くなってしまったのです。

父を亡くした妻と私は、涙を流しながらお菓子をつくる日々を送りました。
幼い子を2人抱えて途方に暮れ、気持ちが行き詰まりそうになると、私の両親が「子供2人の面倒は私たちが見るから…」と、家族全員の食事の支度から保育園の送り迎え、おふろに入れ寝かしつけてくれることまで、仕事が毎晩夜中近くになる私達に代わって協力してくれました。

そんな矢先、優しく心の支えだった私の母もこの世を去ってしまいました。

大切な家族を立て続けに失い、悲しみに暮れる私たちを待ち受けていたのは妻の実家の和菓子店「桃屋甚兵衛」の運営でした。
修行も半ばの若い私たち夫婦には、抱えきれないほどの重責でした。お菓子づくりだけでなく、従業員の指導や管理のすべてを取り仕切り、さらには子育てと…。精神的にも肉体的にも追い込まれた私たちはお互いのストレスで夫婦の危機に直面したこともありました。

休みはもちろん、睡眠もろくにとれない文字通り「忙しい生活」が約7年間続きました。

1坪から始まりました

無我夢中で働く中で、いろんな葛藤が生まれてきました。
子供をほったらかしにして業務管理に追われる日々、ぎくしゃくした夫婦仲…。そうして追い詰められながらでも美味しいお菓子をつくりたいという気持ち…。いろんな気持ちが心の中でぐるぐると巡っていました。
「このままでは何もかもだめになりそうだ…」そんな気持ちにまで追い詰められていたような気がします。

いつしか、「ちゃんと子供たちと一緒にいたい」「自分たちの本当につくりたいと思うお菓子をつくりたい」そんな気持ちが日に日に強くなっていきました。

義父に弟子入りして10年。わがままを言い、独立を許してもらいました。平成16年、私の実家の一部を店舗に改装し「お菓子のかねい」としてオープンしました。この”かねい”という店名は、かつて鮮魚店を営んでいた私の実家の屋号です。家業を継がなかった私が、「せめて先代たちの足跡を遺したい」という思いから父に頼んで譲り受けたものです。

わずか1坪という、小さな和菓子屋さんからのスタート。それでも夢いっぱいに始まったのです。どれだけ店舗が小さくても夫婦二人だけですので毎日が大忙しでした。朝7時から作業を始め、お菓子が店頭に並ぶ午前10時頃まではまさに時間との戦い。翌日の仕込みをしながらその日に売るお菓子を仕上げ、できあがったものを販売して行きます。口コミで少しずつお客さまも増えていきましたが、利益を出すにはほど遠く毎日が目まぐるしく過ぎていきました。

平成16年3月2日にオープンしたお菓子のかねい。看板は手彫りで作りました。

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